ジャニあっく!

「昔のジャニーズは良かったな〜」 というスタンスのジャニーズ応援ブログです! なので今時のジャニーズに対しては辛口記事もあるかもしれませんが、 ジャニーズ愛には絶対の自信があります。ジャニーさん万歳!

ジャニーズのダンス

いやあ、なかなか集まらないものですね、100人て…というより、見てくださってる方は300人以上毎日いらっしゃっているので、残りは×以下ってことなのかもしれませんね…一応まだ評価募集は継続いたしますので、まだ評価頂いていらっしゃらない方はぜひ◎○×××宜しくお願いいたします。

今日はジャニーズのダンスについて。最近はやや昔より分かりづらくなっているかもしれないが、ジャニーズのダンスは他のダンサー達と比べると独特なものがあることにお気付きだろうか。結論から言ってしまえば、ファンに受ければ良い意味で「何でもあり」なのである。

私の時代には、M・ジャクソン全盛の時代でもあり、フットルースやフラッシュダンスなどの映画の影響で激しいダンスやブレイクダンスなどが流行った時代でもあった。当然、ジャニーズの振り付けにもそれはいち早く導入された。今で言えばヒップホップ系やストリート系のダンス要素が随所に散りばめられているように見受けられる。

現在ジャニーズでは誰が振り付けを担当しているのかは知らないが、我々の時代は9割以上はボビー吉野氏の振り付けだった。あとはごくたまに西条先生や南先生が振り付けをされる時があるが、それは何らかのテレビ用の振り付けの場合で、レッスンではほぼ100%ボビー氏だった。

現状が分からないのであくまで「恐らく」ではあるが、ジャニーズのダンスの基本は今も昔も変わらず「バレエ」のはずである。そのバレエに背ヒレ尾ヒレがついて、最終的に振り付けが完成しているのである。何かの番組で、高校生がV6の振り真似を競う企画があった。最近は昔と違い一般の子供達も歌やダンスの感覚がいいのでどれくらい出来るものかと期待してみていたが、やはり明らかに本物とは格差があった。

その格差の根本こそが「バレエ」の要素なのである。私の時代の場合ではあるが、レッスンは週1回平均約6時間前後行われていた。レッスンは前半と後半に分かれており、休憩はその間の1回だけ。30分ほどだったと思う。前半はストレッチ、バレエの基礎などをみっちりこなす。ストレッチも5分やそこらではない。相撲の世界で「股割り」という稽古があるが、それに近い内容である。それについて私が原因でなくなった練習がある。まず床に腰を下ろし足を広げる。そして前からは両腕を引かれ、両足は相手の足を使って限界まで広げられる。さらに上から3人ほど乗っかり上体を床に押し付けるのである。私はこの練習で太腿の付け根の筋を痛め、(バキバキバキッ!と骨が折れたような音がした)病院に運ばれた。この事故以来、この練習はパッタリ無くなった(笑)。

前半の練習でもっともきつかったのは、手は広げたまま、背筋も伸ばしたまま、この体勢を保ちながら音楽に合わせてちょうど足のサイズ位の床タイルを1枚に1歩ずつ進んでゆく練習である。ただし、1歩に1回必ずしゃがんで立つ動作を加えなければならない。そして立った姿勢では片足をつま先まで伸ばしてキックする。キックした足で一枚前のタイルに足を置きそこに軸を移してまたしゃがむ。つまり次は逆の足で立ってキックする。この要領である。距離は車3台分くらいはあったろうか。バランスを崩してもダメ、リズムが狂ってもダメ、もちろんきちんとしゃがんできちんと立てねばダメ。失敗したら戻って最初からやり直す。ちょっとイメージしづらいかもしれないが、もしお分かり頂ける様ならぜひ1回試してみて頂きたい。曲はマイケルジャクソンの「ステイトオブショック」で行う。大抵は2メートルもやればへとへとになるはずである。初心者も基本的に特別扱いはない。

後半は振り付けのレッスンである。適当な曲に練習用にその場で振り付けをし、その場で覚え完成させるのである。次週に持ち越し、などというスポーツクラブのエアロビみたいな甘さはない。また、レッスン場には鏡がなく、初心者ほど後ろに列を作るので先生はあまり見えない。だからそのままレッスンを受けていても見えるのは数列前のそれほど上手な子ではないから、初心者ほど良く分からないまま進んでいく。そういった環境の中で、自力で努力して少しでも先生の見える位置に、前の列にと意欲を燃やさねばならないのである。もちろん前の人は場所を譲ってやったりなどはしない。誰もが一番前の列の先生の目の前の位置を目指して努力しているのである。基本的には先輩から前に並ぶが、実力があればどんどん抜いていける。それは暗黙の了解でもあったが、決して安易にはできない。

私が入った頃は全員でも3〜40人だったが、関東以外からも人が入り始め(恐らく成田が最初だったと思う)、辞める時には150人ほどに膨れ上がっていた。その為レッスンがやや雑になってきた記憶がある。確かそれ以降、キャリアのある者やコンサートなど他にレッスンのある者は日曜レッスンを自粛するよう求められた覚えもある。

色々書いたが、カラオケや文化祭などでもしジャニーズの踊りを上手く見せたいなら、バレエの基礎を少しでも練習するのが近道と思う。ただビデオを見ただけでいくら練習してもまず彼らには近づけない。それだけ基礎基本とは、ジャニーズのダンスにとっては命なのである。

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東山君の凄さ(30日追加記入あり)

う〜ん、今日はなぜだかこんな時間に目が覚めてしまいました。昨日うんざりするほど長いブログを書いたばかりなのでちょっと早いかなと思ったんですが、あれはあれで皆さんしっかり読んでくださいね!かなり重要場面ですから!

<30日割り込み書き>
まだまだ集まりが少ないですう…××でもホントいいんで見て頂いたら写真の印象評価コメントぜひお願いいたします。何とか100人聞かせていただきたいので…ホント、宜しくお願いいたします!あと、携帯からご覧の皆様は残念ながら写真は見られません。お友達のPCとかから見せてもらってくださいね!踊ってる動画をアップしようと思ったのですが著作権とかまずそうなのでやめました。あと、相互のリンクは一旦ここで打ち切らせていただきます。そちらに貼って頂くのは大歓迎です!こちらも貼りたいのですがわかんなくなっちゃうといけないので…それと、コメント頂いた方の中でお返事もらしてしまった方もいらっしゃるかもしれませんが、基本的には皆さんにお返事しているつもりなので、書いてなかったら次の時遠慮なくおっしゃってくださいね。

さて今回は昨日見た「喰いタン」から一言。
ご存知東山紀之さんが主演のコミカルなドラマ。私はものすごく衝撃を受けました。皆さん気づいていらっしゃるでしょうか、彼はオープニングで華麗なダンスの合間に「スワン」という技を決めているのです!スワンとはバック宙の一種で、通常バック宙は飛び上がった後に腹筋で足を体に引き寄せてから着地するのですが、スワンは空中で胸を張って両腕を十字架のように開いて足をピンと伸ばした体制でするものです。大抵ロンダート(側転のようなもの)から入ってスワンに持っていくのですが、私の現役当時でもスワンの出来るのは彼一人だったように記憶しています。それが今の年になっても出来るなんて…!尋常なことではありません。これまで相当自己管理と鍛錬を怠らなかった証拠だと思います。ダンスのほうも、年末のカウコンで拝見した限りでは素晴らしいキレとキメで、惚れ惚れしました。彼は元々M・ジャクソンのファンで、当時からよく真似をしていました。あの日のカウコンも衣装も含めてそんなイメージを受けたのは私だけでしょうか。とにかく、改めて尊敬しました。

さて、おまけで恐縮なんですが、皆さんに是非ぜひお伺いしたいことがあります!先日から私の現役当時の写真を掲載させていただいているのですが、皆さんの目から見てどう思われますか?もちろんジャニーズの一員としての話です。私と年齢の近い方は当時を思い出して、若い皆さん方は髪型を今風に変えて(ていうか写真の髪型自体当時もそもそも気に入ってなかったんですよ…)想像してみてください。そしてコメント欄に
◎(うちわで応援したい!)
○(まあオキニに入れてもいいかな)
×(いや、私はちょっとちがうかな〜)
××(ていうか勘違いでしょ!)
の記号で採点してみていただけますか!まったく遠慮なしで結構です。××だと思ったら容赦なく××にしてください。恨みっこなしです!ジャニファンの厳しい目でぜひ評価をしていただけたらと思います。出来れば100人くらいデータを集めたいと思っています。まぁだからといって何をするわけでもないんですけど(笑)こういうことはこういったところでしか分かりようがないですからね!ぜひ皆さんのご協力をお願いいたします!100人集まるまで更新しません(ホントかよっ!)

追記:
今まで頂いたご意見の中で
「写真だけではなんとも…」
「ダンスを見てみないと…」
「キャラクターがわからないと…」
といったご指摘がありましたので、その点について補足しておきましょう。

まず、写真についてはもう第一印象で結構です。ぱっと見てピッと来るかこないかで判断していただいて十分です。

ダンスについてですが、私は最終的には日曜の通常レッスンには参加できなくなってきました。ジュニアの数が増えてきて、うまい人たちやキャリアのある人たちはツアーのリハなどで代わりにまわされるのです。私もそうでしたから、下手ではなかったと思いますよ。一応オーディションのダンスチェック員や仲間の劇団でコリオグラフ頼まれたこともありますので。今でもカラオケレベルだったら十分喝采を浴びれますよ(笑)

キャラクターについては、歌のうまい中居君、というのが一番近い表現だと思います。でも、これでも今は教員免許を持った大卒ですから、さらに知的さも加えた感じにイメージしていただければいいんじゃないでしょうか。人を楽しませることは得意ですよ。クールでかっこつけたがりのタイプではありません。

参考になったでしょうか。ぜひどんどんコメントください!まだ少なすぎ〜!

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孤独からの脱却

まずは、たくさんの方々に見ていただけるようになったことを深く感謝いたします。出来るだけ皆さんの期待に応えられるようなブログにしていきたいと頑張っていきますので、今後とも応援よろしくお願いいたします!

さて、では前回の続きです。

学生結婚をした両親は、父はそのまま大学に通い、母は中退して私を育てることに専念することに決めた。しかし、当然収入はないので、祖父母たちの力を借りねばならず、きっと肩身の狭い思いをしていたことだろう。また、立派な遊び人だった二人にとって、いきなりの「生活」というものは重くのしかかったに違いない。結果、二人の結婚生活は3年ほどで幕を閉じることとなった。私自身、父と母と3人だけで過ごした記憶はごくわずかしか残っていない。

具体的なことは私は知らないが、その後の親権をどうするかは簡単には決まらなかったようだ。私の記憶には、幾度か父方の家と母方の家の両方に預けられた記憶が残っている。どうやら取り合いになっていたようだ。父方の家は祖母以外男ばかりで、言葉遣いも荒かったので怖かった記憶のほうが多い。ただ、祖母は優しくしてくれていたので、その点で母方に引き取られる際は淋しがったようだ。また、母方のほうは家庭が裕福なこともあり、何不自由ない扱いを受けていた。母方の家は上品なイメージで、記憶的には悪くない。結局数回あっちへ行かされたりこっちに行かされながら、幼稚園に入る直前に最終的に母方の家で生活することが決まった。

しかし、祖父母は私には優しかったが、母にはそうではなかった。当時母方の家は隣同士に2軒あり(元々隣の家はアパートとして使っていた)、母は夜になると、隣の家に行かされていた。私は理由もわからずに、毎夜母と別れねばならなかった。後年母に当時の様子を尋ねると、私は母の去り際に毎回必ず玄関にやってきて、いつまでもいつまでも母に手を振っていたという。その私を見て、母も去りづらく辛かった、と語っていた。

私は中学に上がる頃まで大変病弱で、特に小児喘息を抱えていた。幼稚園も小学校も休むことなどしょっちゅうだった。また、今と違い当時は喘息に使う気管拡張スプレー剤がなかったので、胸と背中全体に湿布を貼られ、病院では副作用の強い注射を毎回打たれた。小さな体に50ccの注射はそれだけでも相当な負担であったが、とにかく猛烈な吐き気のする薬で、注射している最中にすでに嘔吐を繰り返す程だった。ただでさえ喘息で苦しいのに、嘔吐まで加わる辛さは今思い出しても忌まわしくてたまらない。無論、それを見なければならなかった家族はさぞかし辛い思いをしていたことだろう。また、父親譲りなせいか、勉強のほうはかなり出来たのでそういった意味でも「せめて普通に健康であってくれれば…」の思いは当然あったろう。

私自身、劣等感の塊でもあった。小学校の頃といえば、たいてい人気者は運動の出来る子供で、背の高い子供だったと思うのは私だけではないだろう。私は今でこそ175cmを超える身長に恵まれたが、小学校ではいつも先頭か2番目、体育の成績もごくたまに3を取る位で殆ど1か2だった。見た目もいつも女の子に間違われるほど貧弱で、休みがちでそのくせ勉強だけは出来る。これで人気が出るわけがなかった。

父はたまに顔を出しはしたが、酒好きだったのでいつも酔っていた。酔えば優しくしているつもりでも乱暴に見えるものだ。実際無意味に暴力を振るわれた事も少なくなく、私は父を恨むようになっていた。母は昼は甘えられても夜一緒に寝ることはなく、すぐ隣とはいえ必ず去っていく。祖父母は優しくしてくれたが、私は淋しかった。学校でもどちらかといえばいじめられっこで、親友と呼べる友達などいはしない。

私は、孤独だった。ただ、結果的に大人受けだけは良かった。女の子らしく見えるということは大人から見れば可愛らしく受け取られ、利発で病弱ともなれば粗末に扱われないことは今になれば分かる気もする。しかし、当時の私は常に人から見捨てられるのが怖かった。この優しくしてくれる大人たちに、いつか見捨てられるのではないかと常に恐れていた。

だから私は、お祭りなどで家に大人達が集まったときには必ず目立とうとしていた。笑わせようと努力した。可愛いと言われるよう努めた。賢いと言われるよう大人ぶって見せた。いつしか私は、常に人の注目を浴びたいと願う子供へとなっていった。これこそが、やがてジャニーズを目指す原点となる。

小学校6年生の時、3年B組金八先生がスタートした。私はあの番組が好きだった。そして、そこから生まれた「たのきんトリオ」というスター達に大いに憧れた。自分もあんな人間だったらいいのに!その思いは膨らむばかりだった。中学校に入っても、「明星」や「平凡」といったアイドル雑誌を買いまくり、たのきんトリオばかり記事を追いかけた。

一方、中学入学時点で140cmしかなかった身長を伸ばそうと、牛乳を飲みまくったり足が長くなるように親に毎日のように足を引っ張ってもらったりと、変な努力をしていた。「エースをねらえ!」が好きで、テニス部にも入りたかったが、その学校は全国レベルの学校で入部試験であっさりと落とされた。そういったこともあり、思春期を迎えた私のエネルギーは一層たのきんトリオに向かっていった。そうして初めて「ジャニーズ事務所」の存在を知ることになったのであった。

中学校に入ると少しづつ身長が伸び始め、1年後には150cmになっていた。そして、抑えられなくなった憧れは、自分などでは不可能とは思いつつも、ジャニーズへの応募へと自らを動かしていった。ファンクラブへも何度も電話し、応募方法などを確かめて、ついに履歴書を送ったのだ。中学1年の終わりの話である。

しかし、現実は厳しかった。事務所からは「3ヶ月経っても返事がなければ諦めてください」と言われていた。が、半年経っても何の音沙汰もなかった。「やはりダメか…」そう思った。でもどうしても諦め切れなかった。最初の写真は学生証の写真を送ったのだが、きっとそれが良くなかったんだ、と考え、親に頼んで精一杯カッコつけた写真を取りまくり、その中でもこれだ!と思える写真を確か3枚ほど同封したと思う。これでダメなら諦めよう、そう覚悟して再び応募した。

しかし、時は無常にも過ぎていった。また半年が経っていた。私は、やっぱりダメだよな、とすっかり諦めていた。そして、忘れもしない1月17日、ある1通の手紙が私宛に送られてきた。そこには「ジャニーズ事務所」の文字が!私は急いで封を切った。中に入っていたのは、オーディションの開催通知だった。「やった!」私は歓喜した。誰彼ともなく見せびらかした。一気に私の目の前が明るくなった気がした。

そして当日。私は会場に赴いた。浮かれていられたのは、その会場内に入った時までだった。「かっこいい奴が多すぎる…」その時真っ先に思った心境だ。中にはバック転の練習をしている人もいた。人数は70人もいた。

「こりゃ受かるわけないや」正直そう思った。それでいいと思った。ここまで来れたのだから、せいぜい良い思い出にして帰ろう、そう考えていた。そして、オーディションが始まった。最初にジャニーさんから全員に言葉があった。「合格者は2週間以内に(このあたりの期間ははっきりと覚えていない)連絡します。諸君はここにこれただけでもたいしたものなので、不合格となっても決して落胆しないでほしい」というような内容の話だったと記憶している。それから元ジャPAニーズのボビーさんが模擬レッスンをし、何人かごとに踊らされた。その後、別室で台本読みの試験があった。私の時は「グッドラックLOVE」の台本で、相手はなんと野村義男さんだった。あの時は試験より彼を間近で見られた嬉しさのほうが大きかったのを覚えている。

最後に、ジャニーさんと1対1で面接があった。そのとき、ジャニーさんはいきなり「君の学校は芸能活動できないんじゃないの?」と聞いてきた。私は「はい、確かにそうですが入れるものならいつでも辞めます」そう答えた。そうしたら「まあそうもいかないだろうから、とりあえず中学の間はレッスンだけにして高校に行く時に仕事のことを考えればいいんじゃない?本当は今度やる「貫八先生」に出す子を今回選びたかったんだけど…出れないもんねぇ」

私はどうも話が良く分からなかった。ドラマに出る子供を捜していいるのは分かる。でもそれでは私はその時点で失格のはずだ。学校が禁止しているのだから。でもレッスンには来ていいとはどういう意味なんだろう…?

「あのう、レッスンには来ていいんですか?」
「まあ仕方ないからね」
「え、でも合格発表は2週間後なんですよね…?それは僕は受かったって云う事なんですか?」
「う〜ん、まあそう取ってもらってもいいんだけど…まあとにかく来週からきなよ」
なんとも煮え切らない問答だった。結局私は良く分からないまま会場を後にした。

そして次の週、一応言われた通りの場所へと向かった。中には30人ほどの同世代の子供達がいた。「先週の人たちなのかな…?」しかし、よく見るとテレビで見たことのある人がいる(後の少年隊)。そして程なくボビーさんが現れ、いきなりレッスンが始まった。私はとりあえず一番後ろの列に並んでレッスンを受けた。今度は模擬レッスンではないのでものすごい厳しさだった。「えー、今日初めてなんだけど同じことやるのかなあ?」そう思いながらヒイヒイいってレッスンを受けた。「なんだお前そのだらしなさは!」いきなり怒られた。そんなこといわれても…これも試験の続きなのかな、そんな風に思い始めた。それが第一歩だった。

一ヶ月ほど経った頃、同い年で私より少し早くジュニアになっていた内海に「俺って合格したのかなあ?」と恐る恐る聞いてみた。すると、「え?知らなかったの?あん時のオーディションで受かったのはお前入れて3人だけだよ」

衝撃だった。信じられなかった。しかし、それが天が私に与えた運命だった。そうして、その日から心からジュニアの一員としての生活が始まっていくのだった。

長くなってすみません!!
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夜明け前

よくある話だが、芸能界、特にジャニーズに入ったきっかけに「家族が勝手に履歴書を送った」というのがある。私の場合は完全に自分一人の意思で履歴書を送った。今回は、なぜ芸能界、しかもジャニーズを目指すに至ったかの背景を語ってみたい。少々昔話、長話になるが、気楽に読み進めて頂きたい。

私の父方の祖父は加賀百万石と云われた前田家の江戸詰めの家臣の子孫だったようだ。墓には寛永何年、などと昔の年号がやたらと刻まれており、寺の紋章も前田家に縁のある紋章なのでまず真実と見ていいだろう。有名なC大学法学部の出身だったらしく、戦争には学徒出陣で臨時将校として参戦したようだ。いわば「キャリア組」である。

母方の祖父は長野の山奥の出身で、戦争には一般兵として参戦したらしい。こちらは「ノンキャリア組」というところだろう。南方の相当な激戦地に配置されたようだ。幼い頃、祖父の背中に残る2つの銃弾の後を見せられ、その当時はポカンと見つめていただけだったが、今考えると恐ろしいことである。

ところが、戦後二人の運命は逆転する。父方の祖父は戦後一流企業に入社したが、上司に恵まれず出世コースに乗ることができなかったようだ。そのため、家も裕福にはなれなかった。一方母方の祖父は命からがら帰国し、ほとんど無一文の状態から商売を始め、見る見るうちに裕福になっていった。私の母が幼い頃にはもう外国車に乗っていたから、かなりの勢いがあったのだろう。

そして父とは母それぞれの環境の中で戦後直後の同年に生まれた。父はすこぶる頭がよく、有名進学校へと進んでゆく。一方母は所謂「お嬢様学校」へと進学する。しかし、二人とも相当な個性を持った人物だったようだ。

父は若い頃から女性にもてていたという。ルックスも当時としてはいい方だったようだ。それにも増してとにかく頭が切れ、弁舌に関しては仲間の追随を許さなかったという。母から聞いた逸話として、一人で飲み屋で友人を待っていると、見知らぬ女性からしょっちゅう声をかけられて困っていたというから、正直信じられぬが男女ともに人気者だったのだろう。

一方母といえば、「お嬢様学校」に似つかわしくないほどのお転婆ぶりで、高校の授業を仲間とサボっては有名高校の男子生徒らと遊んでいたようだ。写真にもその様子が残っているからこれも本当なのだろう。また、ビートルズなどに影響を受けていたのか、バンド活動にも手を出す。制服の着方も当時の最先端を行くもので、大人たちはきっと眉をひそめていたことだろう。しかし、母はまるでそんな周囲の目を気にすることなく、自由奔放な学生生活を送っていた。祖父や祖母にはそうとう目の敵にされてはいたようだが。

ようするに、二人とも遊び人だったわけである(笑)。ただし、二人に言わせれば決して不良だったわけではなく、イケてる高校生活を送っていたらしい。

その後、母は付属の大学には進まずN大学の芸術学部に進学する。このときの専攻は演劇学科だった。ただしどうやら芸能方面を目指していたわけではなかったらしい。なぜなら、母は職業としてデザイナーを選んだからだ。ただ母に言わせるとそれも望んだ仕事だったわけではないらしく、「デザイン出来ちゃうから仕方なくやってる」と聞いた記憶がある。目指して一生懸命な人たちにとっては悪魔のような発言ではないか(笑)。

一方父は有名国立大学を目指し、合格確実と言われ、受験前日に前祝と称して大酒を飲んだ。結果ひどい二日酔いで受験する羽目になり、見事に不合格となる。最終的に母と同じN大学の建築学科に進むこととなった(ちなみにN大学は大変大きな大学で、各学部で校舎があちこちに分かれていたので、大学内での父母の交流はなかったようだ)。

そんな二人は、六本木にあるジャズ喫茶で偶然出会うことになる。意気投合した二人は恋人同士になるのにそれほどの時間はかからなかったと推測される。なぜなら、二人は学生結婚をすることになったからである。しかも、いわゆる「できちゃった婚」で、母の20歳の誕生日が結婚式で、その時すでに私は母のおなかに4〜5ヶ月の状態だった。

ちなみにこの件に関し私は少しも恥には思っていない。むしろ、まあよくこの時代に先端行っていたこと、と感心するくらいである。

しかし、現実はそうは甘くない。学生結婚ということには祖父母は大いに不満を持ったことだろう。そんな中で、1967年、ついに私が生まれたのだった。不思議なことに、名前は父と母でそれぞれ別に考えていて、それを見比べて決めよう、ということになっていたのだが、なんと二人の出した第一候補は文字も読み方もまったく一緒!しかも当時としてはかなり珍しい名前で、それに関してはいまだに新しい人と知り合うと「いい名前ですね」といわれるくらいだから、まさに芸名のようなものである。

そうして、私の人生は初めから波乱含みで始まってゆく。

つづく

P.S. せっかくなのでジュニア当時の写真を掲載してみることにしました。がっかりしないでくださいね(^^;)ちなみにこれは仕事の写真じゃなくて高校の遠足かなんかの時の写真です。コテコテのカメラ目線ですいません(^^;;)

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ジュニアにとっての学校その2

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私はジュニアとしての活動を求めてエスカレーター式の私立高校への進学をやめ都立高校へと進学した。それも、学区内のもっとも自宅から離れた学校を選択した。地元の近くではすでにジュニアになったことが知れ渡っていたからである。私は学校では自分がジュニアであることを隠していた。

しかし、クラスの中に私を知る女子が一人いて、クラスで自己紹介をしているときに「あの人ジャニーズだ!」と言われてしまった。私は即座に否定した。当時はまだほとんど仕事らしい仕事もなかった時期なので、なんとかごまかせた。

だが、学校生活では孤独を味わわざるを得なかった。毎週日曜日は必ずレッスンがあり、友人と遊ぶことができない。それも理由を言うわけにはいかないから毎回嘘をついていた。また、だんだんと小さいながら仕事が増えるようになり、平日も休みがちになっていった。そんな環境でも決して友人が一人もいないわけではなかったが、心から真実を話せない自分が苦しかった。

さらにつらかったことは、同じクラスに好きな女子ができてしまったことである。当時ジャニーズは女子との付き合いを禁じられていた。もちろんなかにはうまくやっている仲間もいたが、私にはその禁止事項を破る勇気はなかった。その分、彼女に対する思いはどんどん増していった。それは学校の友人たちから見ても推測できたようだった。しかし私は彼らにはその事実さえも伝えられなかった。告白できない理由を問われたら答えられないからである。

ある日、友人の一人が私を呼び出した。その彼女のことが好きになったというのである。彼は「お前も彼女のことが好きなんじゃないのか?」とストレートに聞いてきた。私は「そんなことはない」と答えた。すると彼は「それなら彼女に告白する。それでもいいんだな?」と言った。

私の心は激しく揺れ動いたが、どうすることもできなかった。

「なんだ、いいじゃないか、俺は関係ないから、すぐに告白しちゃえよ」そう答えるしかなかった。そして、彼らはすぐに付き合い始めた。私は毎日、彼らが仲良くしているのを見て過ごさなければならなくなった。しかし、仕事のほうは徐々に増えてきている。ジュニアとして生きていくには、大切な時期にさしかかっていた。私はすべてを押し殺すしかなかった。

そして2学期も終わりに近づいた頃、私に大きなチャンスが訪れた。ある連続ドラマのオーディションに合格したのである。役柄は主人公である父の次男役。決して小さな仕事ではなかった。期間は1クール。撮影は12月から2月いっぱいまでの予定だった。その時私はもはや留年になることを悟った。それまでも仕事で何度も学校を休んでいた上に、今度のドラマは毎週火曜日から金曜までは拘束される。そのほかにも合間を縫ってコンサートや歌番組でのバックダンサーの仕事が入ることは十分予想されていたので、出席日数が足りなくなるのは確実だった。そして私は留年するほどなら、この際夜間高校に行って仕事中心の生活をしようと考えた。

選択できる学校はいくつかあった。有名なのは堀越だが、当時ジャニーズのタレントは記憶する限りでは誰も堀越には通っていなかった。みんなが通っていたのはM大学付属N高校夜間部だった。私もジャニーさんからそこを受けるよう勧められた。しかし私は、たとえつらくとも学業と仕事は分けていたかった。そのため、自分で学校を探し、ジャニーズであることを隠してC大学の付属の夜間高校に行くことに決めた。

そのときになって、私は始めてクラスメイトたちに自分がジュニアであったこと、3学期は学校に来れないこと、そして来年には転校することを告げた。彼女にも、ずっと好きだったことを告白した。すると彼女は、それから幾日か過ぎたある日に私の家に訪れ、餞別に、とプレゼントをくれた。中身は手編みのマフラーだった。私の目は涙でいっぱいになった。友人たちの中には泣きながら「なぜもっと早く言ってくれなかった」と言ってくれた奴もいた。そしてクラスメイトと担任の先生は、私のために教室でお別れ会を開いてくれた。そのときにもらった寄せ書きとわざわざ額に入れてくれたクラス全員の集合写真は、今も私の宝物だ。

それからの私は、どんどんジュニアとしての階段を駆け上っていくことになる。もはや私の目にはスターの座を掴む事以外何も映らなくなっていた。

ジュニアにとっての学校

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トップスターは別として、ほとんどのジュニアの子達は普通に学校に通いながらレッスンを続けていることと思う。そういった生活の中で、彼らは犠牲にしなければならないことに少なからず直面していると思う。

少なくとも、私はそうだった。

私は当時六大学付属の中学校に通っていた。オーディションの通知が来たときは嬉しくて学校に見せびらかしに行ったものだ。まさか受かるとも思っていなかったので、誰彼ともなく見せびらかしていた。

ところが、合格してしまった。もちろん飛び上がるほど嬉しかったが、同時に大きな岐路にも立たされてしまったのだ。

当時通っていた中学は、芸能活動の一切が禁止されていた。私自身は、迷うことなく公立への転校を即座に決意した。しかし、家族(唯一母親だけは賛成してくれた)や担任は当然のごとく反対した。そのまま行けば、たいした苦労もなく名のある大学まで進むことができるので、それを投げ出すなんて、と。しかし、私は「高校や大学なんて勉強さえすれば後になってもいつでもいける。しかしジャニーズには人生に一度しかチャンスは来ない」と頑として聞く耳を持たなかった。そうして押し問答が続いているうちに、最終的には「せめて中学だけは」という意見を私が飲む形で、話をつけた。

しかし、私にとってその譲歩は大きな苦悩だった。その時私は中学2年の終わり頃。つまり、あと1年はレッスン以外の一切の芸能活動を禁止される条件をつけられていたのだ。以前にも書いたが、ジャニーズでの成功には運を逃さないことが最も欠かせない条件だ。レッスンなどいくらしていても目の前にある仕事を見逃さなければいけない重圧は耐え難いものがあった。私はとにかくレッスンに没頭するしかなかった。

初めての仕事は中3の末にようやくやってきた。すでに私は自由な都立高校に進学することを決めており、夢をいっぱいに膨らませていた。しかし、本当の苦悩はここからやってくることを当時の私は知る由もなかった。

つづく

ファンレター

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私がそれなりに全盛期だった頃はファンレターもそこそこもらっていた。初めてファンレターを手にしたときの感動はやはり忘れられない。それから少しずつポツポツもらい始め、はじめのうちはそれこそすべてのレターに返事を書いたものだった。

しかし、その感動も数が増え、慣れてくるにしたがってファンレターに対する見方が変わってきた。心を込めてファンレターを書いている方々には不快な思いをさせてしまうかもしれないが、これもあくまで私個人の話として読み進めていただきたい。

ファンレターが増えるにしたがって、あることに気づいた。はじめのうちはそれこそ単純に喜んでいたのだが、そのうち自分の人気のバロメーターとして捕らえるようになっていったのだ。その頃には時間的にもすべてのレターに返事を出すことは無理があったので、それも一因だろう。

もちろん中身には基本的にすべて目を通していた。が、その目的は今の自分が世間からどのように見られているかを量るためだった。

ファンレターを手にするルートはいくつかある。事務所宛に来るもの、出演しているテレビ局に来るもの、追っかけなどによる手渡しのものなどである。キャリアが浅くとも、ジュニアになればたいていはすぐに手渡し系でもらえることが多い。いわゆる「青田買い」である。面白いことに、そういったファンには少なからず、言い方は良くないが”二股”をかけている子が多かったように感じていた。たとえば、メインはマッチのファンだが、2番目にはこの子、という具合である。恐らくファンの側からしてみればもしそのジュニアがブレークした暁には自分はもっとも近しいファンとなれる。そうなればメリットも十分に大きい、という思惑があったのではないだろうか。このあたりはむしろファンの側である方々のほうが事情に詳しいのではないかと思うので、もしよければそのあたりのファン心理というものをコメントに寄せていただければ幸いである。

ただし、そういったファンのことを大切に思う気持ちももちろん持ち合わせていたことはここに強く伝えておきたい。

ちなみに、引越し等で不注意にも無くなってしまったもの以外のファンレターは、今でも大切に保管してある。それがせめてもの彼女たちへの恩返しと思っている。

少年隊ツアーの思い出

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少年隊 に参加中!
私の約3年半の芸能活動の中で最も輝いていた時期に相当するのがこの少年隊とのツアー同行であったろう。当初は会場も都内の厚生年金やら郵便貯金やらが多く、移動はもちろん自腹での電車通勤だった。

そのうち少年隊がブレークし始め、それと反比例するかのように同行するJr.の数は絞られていった。最終的には当時イーグルスだった大沢と内海を加えたJr.8人構成で全国を回った。活動当初はJr.の数も2〜30はいただろうか。名古屋などに行くときは大型バスに乗り、現地のホテルは大広間に雑魚寝というスタイルだった。

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成功の条件

まずは、やはりジャニーズ関連の話題から進めることにしよう。

私がジャニーズに所属していたのはもう20年以上前の話になる。冒頭にも書かせていただいたが、現在とは諸般の事情や実態が著しく異なることが予想されるので、ひとつの夢物語として読んでいただきたい。

昨今のジャニーズ旋風は目を見張らせるものがある。過去の歴史から見ても最高の黄金期であることは異論のないところであろう。今の私でさえ、恥ずかしながら血の滾る思いを隠せない始末である。

こうなると、ジャニーズに入れさせたい、入りたいと思う人々が溢れるであろうことは想像に難くない。しかし、その関門は恐ろしく狭いものである。

ジャニーズで成功するためにはいくつか避けて通れない大きな山が存在する。それは
・運
・向上心(または決意)
・努力
・運
この4つである。ここに「運」が2回出てくることによく注目していただきたい。これには明確な意味が存在する。順に説明していこう。

まずはじめの「運」であるが、これはオーディションに合格するための運である。私は昭和57年の1月17日にオーディションに呼ばれた。これは書類審査が通ったということを意味していた。オーディションの規模や内容はその時々により違いがあり、一部ではスカウトもあったようなので一概には言えないが、当時1日数百通にも及ぶ応募が事務所に届き、それを2〜3ヶ月溜めたものの中から数十人ほどピックアップする。私のときは70人ほどであった。その中から最終的に合格できたのは3人だったと聞いているから、確率的に言ってもこれは受ける側からしてみれば運以外の何物でもないのである。

次の向上心・決意であるが、ジャニーズは養成所を持たない。つまり、合格すなわち「プロ」として扱われるのである。もちろんほとんどの新人がはじめからダンスや歌ができるわけではない(いわゆるレッスンはダンスのみである)。しかるに初レッスン当日から常連たちとまったく同じメニューをこなせさせられる。レッスン自体は基本的に週1回日曜日に行われるのだが、その厳しさは尋常なものではなく、周りを追い抜きたい、絶対にスターになりたい、という強い意志がなければ到底ついていけるものではない。あわせて努力についてもここで触れるが、そういった環境の中にあって努力することはすでに最低限の基本なのである。ここで言う努力とは、努力の甘い者を逃さず追い抜き、同じように努力している仲間をも追い抜く独自の努力を指している。私自身、当時自費でジャズダンスレッスンを受けていた。また、いかに社長など上層部に気に入られるかという駆け引きも必要とされる。もちろんこれは子供にとっては過酷な要求かもしれないが、成功を掴み取るには欠かせないファクターだと言えよう。

最後に出てきた「運」とは、上記のことをすべてクリアした上で天が与える運のことである。才能や実力があっても世間のニーズがなければ成功はしない。また、仮にテレビなどに出たとしても、肝心のその番組の視聴率が悪ければステップアップの役には立たない。実はこの「運」こそが成功の鍵のすべてであって、これに見放されていたらそれまでの運も決意も努力もすべて水泡に帰すのである。これからジャニーズに入ろうとする人たちはこれらのことをよく踏まえたうえで覚悟を持って挑戦してもらいたい。ジャニーズは自分の青春のすべてをかけるに余りある魅惑の世界である。しかし、その栄光をつかめるのはほんの一握りの天に選ばれた人間である。

私自身は、一片の後悔もない。
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プロフィール

石丸志門

1967年9月5日生まれ O型

元ジャニーズJr.
主なレギュラー活動履歴:

テレビ
TBS「年頃家族」
テレ東「ヤンヤン歌うスタジオ」

ツアー
少年隊全国ツアー帯同

50歳を機にビジネスマンを辞めました!
僕はやっぱりクリエイター。アーティスト。

引退後は大学、留学、教員免許取得、会社勤めなどふらふらしていましたが、ようやくジャニーズに次ぐ生き方を見つけられた感じで努力中です!

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